先生が語る大人の音楽

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ボブ・ディラン「ブートレッグシリーズvol.1-3」

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とりあえず、今回でディランはおしまい。取り上げるのは、ディランのレアレコーディング、未公開レコーディングを集めた3枚組「ブートレッグ・シリーズ第1集~3集」。

普通、この種のアルバムには、マニアは喜ぶけれども、普通のファンにはほとんど価値がない演奏が並んでいるので、人には勧められない。このCDにも、1枚目にはデビュー当時から「時代は変わる」あたりの貴重な未公開曲がズラリと並んでいるし、2枚目には、ロックシンガー時代、「血の轍」までの珍品が目白押しで、たとえば"Like a Rolling Stone"の初期バージョンが3拍子だったことなどがわかり、頭を抱えたりする。

しかし、このアルバムを取り上げるのは、3枚目の最後に、超がつく傑作が3曲連続攻撃で並んでいるからである。時期的に言うと、アルバムセールス的に不振をかこっていた時代、1980年代後半である。

まず、"Blind Willie McTell"。ウィリー・マクテルは、盲目のブルースシンガー。オールマン・ブラザース・バンドがカバーした"Whipping Post"の原作者として有名。哀愁漂うメロディーに乗せて、彼のことを切々と歌うディラン。80年代の最高傑作というファンも多く、コンサートでも歌われていたそうだが、アルバムには未収録だった。幻の名曲。

次は、"When the Night Comes Falling from the Sky”。この曲には、「エンパイア・バーレスク」というイマイチなアルバムに収録されたマスター・バージョンがあるが、別の曲と言っていいほどの出来の違い。かつてディランチルドレンと言われたブルース・スプリングスティーンのバックバンドを従えて、ロックしながら力強く歌うディラン。スプリングスティーンの"Born to Run"に匹敵する疾走感。

そして、最後に"Series of Dreams"。ディラン生涯の最高傑作といってもいいほどの名曲。これは、名盤「オー・マーシー」のボツ曲となっている。しかし、その後、「グレイテスト・ヒッツ第3集」のラストをかざるなど、要するにディラン側も、この曲が圧倒的に素晴らしいことを認めているわけで。何が素晴らしいって、ディランらしいところ。ディランにファンが求めている要素がすべてこの1曲に詰め込まれていると言っていい。

本アルバムには、既出の曲よりも、誰の目からみても感動的な作品が、これ以外にもたくさん収められている。"Every Grain of Sand", "Angelina" などなど。なぜ、このような名曲を、収録当時に発表したら永遠の名曲として記憶されるような曲を、いともたやすくボツにしてしまうのだろう。

ディラン本人には、曲の出来を見極める眼力がないのであろうか? 周りの人間の言うことに、耳を貸そうとしない頑固者なのだろうか? アルバムのコンセプトに合わないということなのだろうか? いずれにしても、ロック史上に残る名曲が、ブートレッグ(海賊版)ではなく正規版「ブートレッグ・シリーズ」で発表されるのは、幸運だった。

ディランほど、伝説のアーティストでありながら、現役としての雰囲気を漂わせている人はいない。たしかにローリング・ストーンズやポール・マッカートニーも、ライブをしアルバムを発表しているが、やはり「過去の人が頑張っているねえ」といった感じで応援している。厳しい言い方をすれば、懐メロ歌手である。

しかし、ディランは、昔の曲も相変わらず歌っているが、そんな感じを全然抱かせない。この現役感を漂わせているのは、あとはちょっと世代は若いがニール・ヤング、パティ・スミス、ヴァン・モリスンくらいか。たぶん、ロックアーティストの理想は、劇的な形で早死して、伝説化することかもしれないが、長生きしてしまったアーティストの理想は、このような生き方なのではないか。

たしかに、時のサウンドに色目を使ったり、アルバムを通じてキリストのメッセージを伝えようとしたり(なんと3部作)、あるいはギター弾き語りのつまらないアルバムを2枚連続出したりして、ファンですら失望させることも多い。しかし、彼は、何度もそうしてきたように、いつかは、ファンを感動させに「戻ってくる」。長い時は5年くらい待たなければならないが。私たちは、「戻ってくる」のを知っている。それは、ディランの原点が、「自分の歌を多くの人に聞いてもらいたい」ところから発しているからで、その思いでフォークシンガーになり、ロックシンガーになり、数々の名曲を生み出し、ネバーエンディングツアーを続けているのである。

そして、今ディランは「戻ってきて」いる。私が今年聴いたすべてのCDの中で、最も感動したのは、最新作「モダン・タイムズ」に入っている"Workingman's Blues ♯2"である。

ディランは、今66歳。いつ死んでもおかしくない年齢である。高校生のとき、学期末試験の前の晩、FMラジオで、ジョン・レノンの死を知り、めちゃくちゃ落ち込み、翌日の試験がボロボロだったと記憶しているが、「ディランの死を自分がどのように受け止めるのだろうか」と、ふと心をよぎる。でも、ディランがしぶとく生き続け、自分の方が先に逝ったりして。

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ボブ・ディラン「追憶のハイウェイ61」

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前回に引き続きボブ・ディラン。ジャケットは1965年作の「追憶のハイウェイ61」。前作「ブリング・イット・オール・バック・ホーム」でフォークギターをエレキギターに持ち替えたディラン。いかにも、そのままバイクにまたがりそうな、ロックっぽいイメージを強調したジャケットである。

ボブ・ディランの最高傑作としては本作か、次作の「ブロンド・オン・ブロンド」、次に「血の轍」があげられることが多い。私は、ディランの作品群には、2つの大きな峰があると思っている。1つ目の峰が、「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」から「ブロンド・オン・ブロンド」まで、そのあとバイク事故を起こし隠棲する。もうひとつの峰が全米初ナンバーワンになった「プラネット・ウェイブズ」から「血の轍」「欲望」を経て「激しい雨」で、ローリング・サンダー・レビュー・ツアーに明け暮れる頃まで。

その谷間の時期にも「新しい夜明」「インフィデル」「オー・マーシー」など、単発的に傑作を発表しているところが大物の証。そして、「タイム・アウト・オブ・マインド」から最新作「モダン・タイムズ」まで、現在も超がつく傑作を連発しており、もう一つの峰ができそうな勢いである。

それでも、彼の黄金時代が1965年の「追憶のハイウェイ61」をピークとした時期であることは揺るがないであろう。それは、当時のディランとそのバンドが奏でたサウンドが40年以上経過した今の時代においても、特別な響きをもって光り輝いているからである。

「ブロンド・オン・ブロンド」にも"I Want You", "Just Like a Woman", "Mostly Like You Go Your Way"(我が道を行く),"Stuck Inside of Mobile with the Menphis Blues Again"といった永遠の名曲が並んでいる。しかし、私が最も愛し、今も最もよく聴く作品は、この「追憶のハイウェイ61」である。ここには、1曲目とラストに、私にとってのディランベスト、不滅の名曲2曲が並んでいるからである。

まず、1曲目は、"Like a Rolling Stone"。ローリング・ストーン誌の、これまで生み出されたロックの名曲500特集で、堂々1位に輝いている(雑誌名が同じだからかもしれないが)。この曲の凄さは、今の若い人の感覚ではわからないかもしれない。

まず、サウンド。オルガンを担当したアル・クーパーを中心に、ギターのマイク・ブルームフィールドなどが作り出すサウンドは、ボーカルと楽器、楽器と楽器の間に緊張関係を孕みつつ、トータルでは音が一体化して響くというマジックを生んでいる。これは、バンドのメンバーの組み合わせ、技術、趣向、ノリといったあらゆる要素が「化学反応」を起こして、この世のものとは思えないサウンドを作ってしまったとしか考えられない。この独特なサウンドは、おそらく再現不能で、本作と「ブロンド・オン・ブロンド」でしか聴けない。

次に、曲としての素晴らしさ。かなり強引な韻を踏んで、叫び、皮肉り、嘲りながら歌われる詞がカッコイイ。現代詩としても成立する詞。これまでのロックとは次元が違う。ボーカルスタイルも関係しているだろうが、ロックのリズムと詞の韻が完璧な形で相乗効果を上げ、ロックの肝であるノリを作っていく。しかも、それをメロディが支えるという構造になっており、文学的な香りを放ちつつ難解な詩が難解に聞こえず、ポピュラーミュージックとして成立しているという奇跡。

もう1曲。ラストに置かれた"Desolation Row"(廃墟の街)。あまたあるディランの曲で一番のお気に入りである。詞の内容は、幻想的で意味不明。それをなんとか解釈しようとする人がいるが、たぶん言葉とその響きが生み出すイメージがディランにとっては重要なのであろう。豊富なボキャブラリーを生かして、言葉を紡いでいく感じ。この曲をパクッたというか、忠実に日本語フォーク化したのが吉田拓郎の「イメージの詩」。私は、この種の輸入をあまり評価しない方だが、ここまでディランの歌世界を日本風に再現してくれれば、まあ満足である。拓郎の最高傑作。

しかぁーし。私がこの曲が好きな理由は、ディランの曲づくりの巧みさやニュアンス豊かなボーカルにあるのではない。この演奏のポイントは、ディランのボーカルに寄り添うようにギターを弾いているマイク・ブルームフィールドにある。ディランのボーカルと掛け合いをしながら、11分以上にわたり、ギターと格闘している。

ギターから、考えられる限りのメロディ、フレーズを生みだし、注ぎ込んでいく。ブルームフィールドにとって、まさに一世一代の名演。すべての音楽的アイディアを出しつくしたような演奏。彼は、シカゴで結成されたポール・バターフィールド・バンドにギタリストとして参加する。このバンド。シカゴ・ブルースにイカレタ白人連中が作ったバンドで、デビューアルバムでは、ブルースの名曲の数々をカバー。そんなバンドを経て、ディランのフォークシンガーからロックシンガーへの移行期、音楽的な葛藤と創造、保守的なファンとの戦いの場に立ちあう。

何度聞いても、ディランの力強いボーカルの後方で、必死になってギターで歌おうとしているブルームフィールドに耳が惹きつけられる。その後のフルームフィールドは、恵まれた音楽人生を送ったとはいえず、84年にひっそりとこの世を去っている。

歴史的な瞬間に立ち会ったこと。それをしっかりと支えてきたという自負。あるいは自分の人生。いろいろな思いを込めて、ギターはディランの詞世界「廃墟の街」をさまよいながら、時を刻んでいく。この11分間は、私が体験する最も短い11分間である。

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ボブ・ディラン「フリーホイーリン」

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ジャケットに写っているのは、ボブ・ディランと当時の恋人スージー・ロトロ。かの「風に吹かれて」が収録されているディランのセカンドアルバム「フリーホイーリン」。

ディランのアルバムのジャケットには、悲しくなるほどお粗末なものが多い。しかし、このジャケットは、すべてのロックアルバムの中で一番好きと言っちゃってもいいほど、お気に入りである。寒い寒いニューヨークの街を腕を組んで、幸せそうに歩くふたり。高校時代、このアルバムのLPを眺めながら、いつかこんな風に恋人と歩きたいなと、溜息をついたものである。

ロックミュージックの歌詞を文学・芸術の域まで高めた男。フォークロックというフォーミュラを生み出し、すべてのミュージシャンに影響を与え続けている男(彼が現われなかったら、ミスチルもスピッツもいなかった)。老境にはいったはずの今でも(1941年生まれ)、超傑作を生み出し続ける男。私と誕生日が同じな男(5月24日)。

ビートルズは、ロックバンドとして超越した存在だったが、ビートル(単数)としては、ディランには遠く及ばない。おそらく、ひとりのミュージシャンとしては、ロック史上最重要の人物だと思う。次々と語りたいことがあふれ出てくるので、何回かに分けて書いていきたい。

今回は、プロテストシンガーとしてのディラン。ミネソタ大学時代から、ピート・シーガーやウディ・ガスリーといったフォークシンガーにあこがれ、彼らの歌をコーヒーハウスで歌うようになる。20歳の冬にニューヨークのグリニッジビレッジへ。62年、「ボブ・ディラン」というタイトルのアルバムでデビュー。そのあと、しだいにフォークの旗手として注目を集め、ヒーローになっていく。

デビューアルバムは、オリジナルがたった2曲で、後はすべてカバー。ハーモニカとギターの技量にはすごいものがあるが、アルバム自体の魅力はそれほど感じない。彼がフォークシンガーとして注目を浴びるようになったのは、やはりこのアルバムに収められている「風に吹かれて」がピーター・ポール・アンド・マリー(PPM)というフォークトリオに取り上げられ、大ヒットしてからである。

このアルバムには、「風に吹かれて」以外にも「北国の少女」「戦争の親玉」「はげしい雨が降る」「くよくよするなよ」といった傑作が収められている。それ以外にも、たくさんの反戦歌が収録されている。

私がはじめて聴いたディランの曲は、「風に吹かれて」。そのとき抱いた印象は、「これが反戦歌か?」というものだった。「白い鳩は、いくつの海を越えていかなければならないのだろう。砂の上で眠りにつくまで」「砲丸は、いくつ飛び交わなければならないのだろう。それらが全面的に禁止されるまで」といったように問いかけておいて、「答は、風の中。風の中に吹かれている」。なんて突き放した答え。

ディランは、もっと直截的に戦争や人種差別に反対する歌を作っているが、私は、この曲の中にこそ彼の本質が隠れていると思う。彼は、唄うのが好きで、とにかく自分の歌をみんなに聴いてもらいたかった。当時、反戦歌を歌うと、みんなが真剣に聴いてくれた。だから、一生懸命、反戦歌を作り、ステージで聴衆に訴えかけた。それがあまりに素晴らしく、説得力に溢れていたので、彼はフォークのプリンスとして名をあげてしまったのではないか。

彼は、プロテストシンガーではあるが、反戦運動家ではない。社会の不正に怒り、社会の不正義に反抗する人たちに寄り添って、彼らを応援する感動的な歌をたくさん生み出してきたが、自分が反戦運動のリーダーとして祭り上げられようとしたとき、「それはごめんだ」と拒否する。そして、もっと魅力的な世界、より多くの観衆が喜んで聞いてくれるロックという音楽を発見したとき、彼はさっさとそちらの世界に踏み込んでいったのである。

彼のあの特徴的なボーカルスタイルも、そのような意識から生み出されたものである。彼は、自然とあのような歌い方をするようになったのではなく、プロテストシンガーとして、怒りを表現し、歌詞の内容が聴衆に伝わりやすい歌い方を考えて、意図的にあのように歌っているのである。彼が多彩な歌い手であることは、後に「ナッシュビル・スカイライン」というアルバムで、ノッペリとしたボーカルを披露して明らかになり、ファンを戸惑わせる。

ディランには、あり余る才能があった。まず、作詞の能力。当時の誰も足元にも及ばないほどの語彙、言葉の選択能力、それに基づく暗喩や思わせぶりな幻想的表現。彼は、歌詞の世界を詩の世界に変えていった。

意外と知られていないのは、彼のメロディメーカーとしての才能。ディランの初期の歌の多くは、PPMのほか、バーズなどに取り上げられ、大ヒット。彼の紡ぎたすメロディの素晴らしさを、他のアーティストのカバーを通じて、ファンは再認識することになる。

次作「時代は変わる」というプロテストシンガーとしての最高傑作を発表したあと、「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」というアルバムを発表する。ここには、"All I Really Want to Do", "Chimes of Freedom", "To Romana", "My Back Pages", "It Ain't Me Babe"といった名曲がキラ星のごとく並んでいる。フォーマットは、まだフォークスタイルだが、これらの曲の多くがロックスタンダードになっていることからもわかるように、ロックのリズムと気分が内包されている。そして、次の作品「ブリング・イット・オール・バック・ホーム」でエレキギターを導入し、ステージでは保守的なフォークファンの罵声を浴びることになる。

それにしても、ディランがニューヨークに出てきて付き合うようになった女性は、みな知的で美しい。スージー・ロトロと別れたあと、ディランはジョーン・バエズと行動を共にする。当時、彼女は、フォークファンにとっては、女神のような存在だった。ジャケットに写るディランは、繊細で傷つきやすく、シャイで気難しく、甘えん坊で反抗的、自分の才能をもてあましていてイラついている少年という感じ。それが、彼女たちの母性本能を刺激したのだろうか。



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サニー・ボーイ・ウィリアムソンⅡ「ダウン・アンド・アウト・ブルース」

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どう? いいジャケットでしょう。なんかダルっとしていて。日がな一日、何もすることがなく、ドア先に寝っ転がっている薄汚い男。でも、全然哀れっぽい感じがしない。

これは、サニー・ボーイ・ウィリアムソンというバーブを得意とするブルースマンの「ダウン・アンド・アウト・ブルース」というアルバムで、私は長年、ジャケットに写っているのが本人だと疑わなかった。実は、本人は、結構ダンディで、ストライプのスーツにダービーハットというスタイルでステージに立っていたという。

上品に書けば、彼の人生は、ミステリアスな謎に包まれていたということになるが、早い話が嘘つきで食わせ者だった。まず、生年がわからない。1899年説、1897年説、1907年説まである。本名も不明。一応、ライス・ミラーということになっているが、本名をきかれるたびに、その時の気分で答えてきたものだから、いくつものバリエーションがある。

このサニー・ボーイ・ウィリアムソンという芸名も迷惑この上ない。実は、彼がデビューした時に、もう一人かなり有名な同名のブルースマンがいた。ライス・ミラーは、本家サニー・ボーイと活動地域がダブらないだろうと想定し、同じ名前を名乗る(普通の神経ならこんなことしないだろう?)。今では、紛らわしいので、古い方のサニー・ボーイをⅠ世。ここで取り上げている食わせ者の方をⅡ世と呼ぶことが多いが、今ではこのⅡ世の方が有名になってしまったという皮肉。

大言壮語のエピソードには事欠かない。一番有名なのは、かのロバート・ジョンソンの死に立ち会ったというもの。ロバート・ジョンソンは、何者かに毒を盛られて短い一生を終えるのだが、その日、サニー・ボーイは一緒にステージに立っていたという。客席からワインの瓶がロバートに渡された。サニー・ボーイは、ワインをロバートの手から払い落し、「栓のあいたワインなんて飲むんじゃねえ。何が入っているかわからねえぞ!」と注意したという。なのに、ロバートは次に渡されたワインを飲んでしまって、不運な死を遂げたそうな。

ただロバート・ジョンソンのまま子である、ロバート・ロックウッド・ジュニアとは親しかったのは事実で、このアルバムでもギタリストとしてジュニアは参加している。そのほか、マディ・ウォータース、ジミー・ロジャース、オーティス・スパンといったシカゴ・ブルースのオールスターメンバーが、サニー・ボーイのバックを支えている。

彼は怒りっぽく、気まぐれ。お金に汚く、人の悪口を言うのが大好きだったらしい。その彼がなぜ愛されていたのか。このアルバムに響き渡るハーモニカの音を聴けば、理解できる。彼のボーカルは、ちょっとビブラートをきかせていて、いい味を出しているが、上手いという感じではない。しかし、ハーブの音色は格別。オーケストラのバイオリンの合奏のように深い! どこで覚えたんだか、テクニックも凄い。アンプを通していない生の音だが、ニュアンスが豊かで、人間のすべての感情を表現する凄い演奏なのである。

このアルバムは、1955年から58年にかけて、チェスレコードに吹き込んだものをまとめたものだが、63年に彼は、フォークフェスティバルの一員として、ヨーロッパにはじめて渡る。おりしも、フォークブーム(ここでのフォークとは今でいうブルース)で湧いていたヨーロッパで、彼の演奏は受けまくる。彼はイギリスに残り、当時エリック・クラプトンが在籍していたヤードバーズやアニマルズと共演する。

以前書いたように、イギリスのロック・ミュージシャンには、ブラック・ミュージックに対するぬぐい難いコンプレックスがある。サニー・ボーイやジョン・リー・フッカーといったブルースマンが直接イギリスに渡り、若いロック・アーティストと共演しながら、ブルースの本質を注入・伝授したことは、その後のロックの展開を考えると、その影響はあまりに大きい。

彼は、帰国後体調がすぐれない中、ザ・バンドなどとともに、ステージをこなしていた。ザ・バンドのロビー・ロバートソンの証言によると、ステージの横にブリキ缶が置いてあり、サニー・ボーイは、血を吐きながら演奏を続けていたという。ある日、レコーディングセッションの予定が入っているにもかかわらず姿を見せないので、部屋を訪ねた仲間のミュージシャンが冷たくなっている彼を発見する。今の言葉で言うと孤独死。

はっきりとした素性もわからず、放浪を続け、いつ間にかキング・ビスケットというブルースを流すラジオ番組のDJとして一世を風靡し、レコードデビュー。ヨーロッパとアメリカを股にかけて旅を続け、多くの人を煙に巻いた男。B・B・キングのような尊敬されるミュージシャンでも、マディ・ウォータースのような大立者でもなく、胡散臭いブルースマン。

アメリカの黒人は、差別されて虐げられ搾取され抑圧されてきた。そんな教科書的な説明を超越した狡猾さ、逞しさ、気高さを彼の歌・生き方から感じる。彼は、多くのブルース・スタンダードを残しているが、その歌詞の内容は、マディ・ウォータースのようにマッチョで押しの強いものではなく、男が女に平謝りしたり、言い訳したり、懇願したりする、どうしようもなく情けないものが多い。ハーブの音色がその情けなさ、ダメさを増幅して表現する。それが、優れた芸術作品として成立するのが、ポピュラー音楽の不思議さである。

この音楽を聴いて、もう一度アルバムジャケットを眺めてみる。このアルバムの音楽、サニー・ボーイのブルースの魅力をよく表現しているジャケットだと改めて思う。

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