先生が語る大人の音楽

先生が音楽について語ります。

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サンソン・フランソワ「ショパン名曲集」

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ジャケットに写っているのは、フランスが誇る名ピアニストのサンソン・フランソワである。この時期には、まだ精悍な若者の面影を残しているが、このあと、今でいうメタボ状態になっていってしまい、46歳の若さで亡くなっている。

彼の音楽を聴くと、つくづく天才の音楽だと思う。彼は、5歳でピアノをはじめ、アルフレッド・コルトーに見出され、14歳でパリ音楽院に入学。16歳で首席で卒業している。このような天才少年が行きついた音楽が、レコードの溝に刻まれ、今はCDのパッケージに封入されている。

フランソワが得意としたのは、ショパン、ドビュッシー、ラヴェルといったフランス人の作曲家。それから、スクリャービンやプロコフィエフなどロシアものを少々。ベートーベンは、肌に合わず大嫌い。モーツァルトもそんなに好きではなく、クラシックの王道であるドイツ系の作曲家を取り上げることは少なかった。例外は、シューマンとバッハくらい。

彼の演奏の特徴を一言でいえば、テンポの揺らしである。インテンポ、つまり一定のテンポを維持するのではなく、遅くなったり早くなったり時間が伸び縮みする。音色のコントロールとテンポの揺らしで、本当に心地よい気分にしてくれる。

クラシックをある程度聴いている人には、本当は好きなんだけれども口が裂けても好きだと人には言えない通俗名曲がある。私にとっては、ショパンのノクターン2番である(あー恥ずかしい)。でも誰の演奏でもいいわけではなく、フランソワでなければダメ。彼のテンポの揺らし方が私の生理に合っているのかもしれない。息を引き取る瞬間。本当にこの演奏を聴いていたいと思う。

クラシックには、テクニックとメカニックの2つがあるとよく言われる。楽譜の内容を忠実にリアリゼしていく能力。正確にトチることなく弾く能力は、テクニックではなくメカニックである。おそらくフランソワも、天才少年と言われていた頃は、このメカニックが優れていたに違いない。しかし、演奏家にとって重要なのは、テクニックである。テクニックとは、聴かせる能力、感動させる能力のことである。

往々にして、正確な演奏はつまらない。音符どおり弾くだけで感動を呼ぶことができれば、演奏家はいらず、機械に演奏させればいい。作曲家と聴衆との間にピアニストという人間が存在して「表現」していく。その表現力のベースには、ある程度のメカニックも必要であるが、そこに何を付加するのか。その付加されたものが、人間の感情に訴えかけ感動を呼び起こすのである。

彼は、コルトーやマルグリット・ロンといった当時フランスで活躍していた一流の音楽家の教えを受けていた。その影響もあって、技術よりも表現力を磨く方に力を注いだ。練習もそこそこに、賭けごとやお酒におぼれ(晩年はアル中だったという噂)、人間の憂いや人生の悲しみを知ることで、テクニックを身につけていった(芸のためなら、女房も泣かすぅ~)。

フランソワが表現しようとしたのは、おそらくショパンが暮らしたフランス・パリの空気である。どの町にも、その町特有のにおいがある。雨にぬれた石畳。そこから漂ってくる濡れ落ち葉の匂い。カフェから漂ってくるコーヒーの香り。ブラッセリからはパンの香り。排気ガスと体臭とほんの少しのコロン。そんなにおいが複雑に入り混じってパリの空気を作っている。私がちょっとだけ経験し記憶している空気感を、フランソワの演奏はよく表現できていると思う。

もちろん、天才の音楽は一面的ではない。夜の深さ、暗闇の怖さを悪魔的に表現した演奏(スクリャービンのピアノソナタ3番やラヴェルの夜のガスパール)、天使が羽根で弾いているような演奏(ドビュッシー)など、一筋縄ではいかない。どれもこれも、フランソワという人間を通して表現される音楽であり、やっぱり曲というのは、演奏家に刺激を与える素材にすぎないのだなあ、という意を強くする。

とはいいながら、フランソワの濃い演奏から浮かび上がるショパンという演奏家兼作曲家の天才性も、このアルバムからは十分に感じ取れる。曲としては、スケルツォ2番とバラード1番は凄い名曲であり、ミケランジェリとフランソワの演奏を聴き比べてみると面白い。

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ミケランジェリ「ショパンリサイタル」

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アルトゥーロ・ベネディッティ=ミケランジェリ。イタリアのピアニストである。アッシジの聖フランチェスコの末裔とも言われる。医者・パイロット・レーサーの肩書ももち、大戦中はムッソリーニのファシズム政権下、レジスタンス運動の闘士だった。

そのような本人にまつわるエピソード・伝説には事欠かないが、彼の演奏を聴くと、そんな情報が余計なことと思われる。「研ぎ澄まされている」という表現が、この人ほど合う人はいない。

私がクラシック音楽を聴く理由は、前にも書いたが、曲の良さを楽しむためではない。演奏を楽しむためである。では、どのような演奏が楽しめるのか。私は、日常生活から切り離された非日常の時間を持ちたいがために音楽を聴く。だから、最も好むのは「異常な」演奏。アファナシエフとも共通するところであるが、ミケランジェリの演奏も、他の演奏家では絶対に聴くことができない「異常さ」がある。その異常さに身を浸すことで、現実世界からちょっとだけ離脱することができるのである。

このアルバムは、ショパン集。マズルカ10曲を選んでいるほか、前奏曲とバラードを1曲ずつ。スケルツォを最後に配している。こんなプログラム、凡庸なピアニストが演奏したら、ただのつならないショパン作品集である。

マズルカは、2分に満たないものが多く、6分を超える1曲を除いて、あとは3分程度。だが、その1曲1曲がすごい。交響曲1曲分といったらオーバーだが、そのくらいの情報量が含まれている。聴けば聴くほど、曲の隅々まで、「考え抜いて」演奏しているのがわかる。

聴いてすぐわかるのが、音色の「異常さ」。ピアノは、バイオリンなどと違って、素人でも簡単に音を出せる。しかし、ミケランジェリの音は、明らかに他の演奏家とは違う。1音1音の音もパワーも違うが、もっとすごいのが音色を変化させていくテクニックである。彼の演奏会の模様が映像で残されているが、プロのピアニストが参考にするほど繊細なペダル(足元にあるヤツ)ワークだそうだ。

このようなミケランジェリのテクニックの本領が最も発揮されるのは、ドビュッシー。グラモフォンというクラシック最大のレーベルに、ドビュッシーの作品集が残されていて、人類の財産となっている。ただし、ドビュッシーならば、彼がバチカンでローマ教皇の前で演奏したCDの方が、鬼気迫る演奏で、お勧めである。

そのほか、ラベルのピアノ協奏曲。協奏曲なので、当然オーケストラが付いているのだが、聴いているうちに、オーケストラの演奏が邪魔に感じられ、やがてピアノの音しか耳に入らなくなるという珍品である。それから、ラフマニノフのピアノ協奏曲。ラフマニノフの協奏曲では、2番と3番が有名で、飛びぬけて名曲だが、ミケランジェリは、2番にはラフマニノフ本人、3番にはホロヴィッツの名演が残されているので、録音する必要はないとして、最もマイナーな4番だけを録音している。彼は、このつまらない曲で、人を感動させてしまうのだ。

ミケランジェリは、キャンセル魔としても知られる。お客さんが会場に入って、ミケランジェリがステージに登場。椅子に腰掛け、ピアノを鳴らす。その響きが気に入らないと、舞台の袖に引っ込みそのままキャンセル、といったことがよくあったらしい。だから、彼がすんなりと演奏を始めると、客席から安堵のため息が漏れたという。

想像するに、彼はイタリア人特有の職人気質(かたぎ)を持っていたのではないか。つまり、お金を払って会場に足を運んだ人に下手な演奏は聴かせられないと、環境が整わない中途半端な条件では演奏をしないし、演奏を始めたらベストを尽くす。ノーミス演奏をすることで有名だったというし。

そんな生き方を知ると、偏屈な人間かと思われるが、そうではない。レジスタンス運動をしていたという経歴からもわかるように、人間好きであり、しかも教え魔だった。1000人単位で弟子を抱えていたことでも有名である。ただ、弟子のひとりアルゲリッチ(おそらく現役ピアニストで実力・人気ナンバーワン)によると、ただうなずいて聴いているだけで、何も教えてくれなかったそうだが。

ミケランジェリの演奏は、BGMには向かない。自然と耳がスピーカーの方に引きつけられてしまう。音色は、氷のように冷たく、ナイフのように鋭く、旧約聖書の神のように厳しい。しかし、アルバム全体を聴きとおすと、また息が詰まるような演奏を聴きたくなる。究極の厳しさの先にヒューマニズムが感じられるからかもしれない。

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ヴァレリー・アファナシエフ「シューベルト最後の3つのピアノソナタ」

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これからしばらく、クラシックを取り上げるときには、ピアニストについて語ろうと思う、二人目は、ヴァレリー・アファナシエフ。幸か不幸か、ここに掲げたジャケットには顔が写っていないが、ナマハゲみたいな風貌を思い浮かべて欲しい。

アファナシエフの演奏の特徴を一言で表現するのは簡単である。「超スロー」である。どの曲も、普通のピアニストが弾いた時の1.5倍から2倍以上の時間がかかる。ここに紹介したディスクに収録されているシューベルトのピアノソナタ21番は、第1楽章だけで30分近く要している。

では、チンタラ弾いているのかというと、そうではない。ひとつひとつの音が研ぎ澄まされ、ひとつひとつのフレーズが考え抜かれており、そこに込められている情報量は異常に多い。彼の弾いたムソルグスキーの「展覧会の絵」。BGMとして流していても、最後の「キエフの大門」が終わると、なぜかぐったりしてしまうほどである。

彼が注目されるきっかけとなったのは、ブラームスの後期ピアノ作品集。あのつまらないブラームスのピアノ曲の魅力を十二分に引き出し、哲学者?浅田彰に激賞された。そのほか、シューマンの「クライスレリアーナ」、バッハの「平均律クラヴィーア集」、リストのピアノソナタ、ベートーベンの最後のソナタ集などが特にお勧め。

グールドは、バッハにこだわり、モーツアルトとベートーベンも嫌いだとは言いながらソナタを全曲録音したが、アファナシエフはコンプリートには関心がなく、特定の作曲家の特定の曲に取り組む。彼は文学者カフカに傾倒しており、難解な小説もいくつか書いているし、ステージで劇を行うこともあるらしい。たぶん、純粋に楽譜の音符の列から音楽を作り出すのではなく、その作者が置かれていた状況、心理的な葛藤などを、司馬遼太郎がよくするように勝手に想像して、音楽を生み出す。

通常、クラシック音楽で重要視されるのは、「作曲家がどのような意図をもっていたのか」「どのような音楽にしたかったか」である。しかし、アファナシエフがこだわるのは、楽譜の底の方に沈澱している真実であり、それはおそらく作曲者本人も意識していないで書いた部分である。

紹介したディスクは、シューベルトが残した最後の3つのピアノソナタ(19番~21番)。どれも難曲として知られている。難曲には2つのタイプがある。ひとつは技術的に弾くのが難しいという意味で、もうひとつは音楽的に聴かせるのが難しいという意味である。このソナタは、明らかに後者である。凡庸なピアニストが弾くと、ただただ同じようなメロディーが繰り返されるだけのつまらない曲になってしまう。

クラシック音楽では、曲を全体としてまとまったものに見せるためのテクニックとして「ソナタ形式」というものを発展させてきた。この形式では、まず、主テーマと、それとはなるべくタイプの違った第2テーマが提示される。そして、主テーマ、第2テーマがそれぞれ変化しながら入れ替わり立ち替わりあらわれ、理想のフィナーレとしては、この2つのテーマが融合して、素晴らしいメロディになって終わるというものである。

いうまでもなく、西洋の二元論に基づく弁証法の考え方。対立と緊張から素晴らしいものが生まれるという西洋的理想を表現している。クラシック音楽を聴くときは、このソナタ形式を意識すると、作曲者の作曲技法、その苦心の跡がわかって、より深く楽しめる。

ところが、このシューベルトのピアノソナタ。ソナタとは言いながら、この形式がメチャクチャへたっぴーなのである。テーマは展開しない。次から次へと美しいメロディが唐突に現われては消えていく。アファナシエフの演奏を聴くまで、シューベルトのピアノソナタは、はっきり駄作だと思っていた。でも、アファナシエフに騙されているのかもしれないが、今は彼のピアノソナタはスゴイ曲だと思っている。

シューベルトのピアノソナタは、人間の頭の中の「想念」なのである。電車の中でも会議中でも授業中でも、人間はいろいろなことを頭の中で考える。それはとりとめもない。どんどん違う方向に考えは流れていき、ときにもとの考えに戻ってくるが、また次の考えに移っていく。誰でも日常的に行っている思考のプロセスをシューベルトは表現したのではないか。それは、ヨーロッパ近代思想、弁証法が目指すような、全体を奇麗にまとめていくという統合の方向ではなく、バラバラのものをバラバラのまま受け入れるというポストモダンな考え方に基づくものなのではないか。

しかも、アファナシエフの演奏でわかるのは、そのシューベルトの想念の中に、「死の影」が付きまとっていることである。シューベルトがこのピアノソナタを書いたとき、すでに死期が迫っていた。しかし、普通に演奏すると、これらの曲には暗い部分は見当たらず、美しいメロディばかりが目立つ。しかし、彼の演奏を味わうと、美しいメロディとメロディの間に、時々信じられないほどの不協和音が挿入されていることがわかる。

だから、アファナシエフによるシューベルトには、「死の匂い」が漂っている。実は、彼が演奏したモーツァルトの幻想曲も同じものが表現されている。キング・クリムゾンが'Starless and Bible Black'と表現した底なしの暗黒に首をのばして覗き込んでいるシューベルトやモーツァルトの姿が見えるようだ。

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グレン・グールド「ゴルドベルク変奏曲」

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今日は、クラシック音楽を。グレン・グールドのゴルドベルク変奏曲(1981年録音)。ちょっとゴリラっぽい顔に見えるかもしれないが、1955年に同曲でデビューした頃は、レーナード・バーンスタインに「こんなに美しいモノは見たことがない」と言わしめたほどの美少年だった。

私は、無人島に1枚、と言われたら、このCDを選ぶかもしれない。それほど、この演奏が好きである。クラシックでは、通常「どの曲を聴くのか」が問題とされ、CD店でも作曲家別に陳列されている。このことが、クラシックの聴き方を決定的に誤らせている。クラシックでも、ジャズやロックと同様、曲もいいに越したことはないが、誰が演奏しているかが決定的に重要である。どんな名曲でも下手な演奏家によるものは聴けたものではないし、グールドなどの天才の手にかかれば、どんなにつまらない曲でも大きな感動を与えてくれるのである。

グールドは、カナダ人である。デビュー録音のゴルドベルク変奏曲も、きわめて魅力的な演奏である。バッハが速度記号を付けていないことをいいことに、ヨーロッパの演奏慣習などを無視して、めちゃくちゃ早いスピードで弾ききっている。そのリズムの切れ、躍動感は、これまでのクラシックになかったもので、音の連なりの美しさも際立っていた。

彼がバッハを弾いた作品はどれも傑作である。特に、「平均律クラヴィーア」と「パルティータ」は、お勧めである。そのほか、ハイドンやブラームス、モーツァルト、シェーンベルク、スクリャービンなども、よく聴いている。それから、彼の一番のお気に入りだった「エリザベス朝時代の作品集」も、心が疲れているときにかけている。彼は、ベートーベン、シューマン、ショパン、リストを評価しておらず、モーツァルトも後期作品で堕落したと評していた。

グールドは変人として知られており、真夏でもコートを着込み、手袋をして、演奏時には父親が作った椅子しか絶対に座らなかった。観客の咳や雑音で、自分や聴衆の集中力が左右されるのを嫌い、人気絶頂のときにコンサートをドロップアウトする。事情はちょっと違うがビートルズと同じ。その後は、レコード録音やドキュメンタリー制作、評論活動などを通じて、作品を発信してきた。

そのグールドが、四半世紀ぶりにゴルドベルク変奏曲を再録音し、なんとその直後、脳卒中で急死してしまう。つまり、このアルバムがラストアルバムとなった。「人生は変奏曲」と誰が言ったか忘れたが、ひとつひとつの変奏が様々なニュアンスを伴いながら現われては消えていく。怒り・悲しみ・喜びといった人間の感情がピアノの1音1音に封じ込められている。ピアノの響きと自分の思考が共鳴しあう瞬間が楽しい。

楽譜の指示を無視するグールドの演奏は、オーセンティック(正統)ではないと異端視する評論家がいる。でも、通常チェンバロで演奏されていたバッハの鍵盤曲を、スタインウェイのピアノで美しく響かせた瞬間に、すべてのピアニストは、バッハの期待した演奏から外れているのである。曲は、素材であり、その曲の中に隠れている(場合によっては作者本人も気づいていない)美しさを表現し、聴き手に感動を与えるのが、演奏家の役割ではないだろうか?

彼は、圧倒的なテクニックと録音技術を駆使して、完璧な作品を生み出していった。あまりに完璧なので、水晶のように無機質でヒンヤリとした印象を与えるかもしれないが、思わず感情の「高まり」が鼻歌となってそれが録音されスピーカーから流れてくるとき、機械ではなく人間が演奏しているという事実を確認し、ちょっと安心する。

ゴルドベルク変奏曲は、G音で始まりG音で終わる。lenn ouldも、oldberg Variationsでデビューし、この曲で人生の幕を閉じた。彼のお墓には、この曲の旋律が刻まれているという。

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